私のプロフィールに興味を持ってもらえてありがとうございます。
簡単ではありますが、私の事を紹介させてください。
創業100年、祖父が創業した会社で三男の父は私が大学生の時に他界しましたが長く専務をやっていました。
わたしも大学卒業ど同時に3年の修行をしたのちに会社に入りました。
そして、最終的には取締役から専務までなりました。
(現在は、その川原食品株式会社は、本家のいとこが社長をされてあります。)
当時独立心があった私は、その会社を辞めて独立致しました。
私は自分でもトップでやれると信じ負けん気で独立しました。
ですが、完全に思い違いの天狗野郎でした。
思い知らされました。
会社に守られていたという事に全く気付かなかったんですね。
後述しますが、身から出た錆とはいえ、本当に大変でした。
今の私から考えても、浅はかな人間だったと思います。
そんな私ですが、
独立して13年くらいになりました。
最初は、飲食業を始めてからうまく行かなかったため3年でやめました。
その次は、職業訓練校の教室の校長を1年やりました。
そして、今の便利屋業にたどり着きました。
飲食業から、職業訓練校の校長という経歴のおかげで、
私の事を、大将!マスター!校長!
と言う方もいらっしゃいます。
皆さんの優しさが、呼び名に含まれている気がします。
本当にいろんな方と出会えた事が私を育ててくれたのではないかと思っています。
そして、住まいるパートナーという便利業を開始して9年がたとうとしています。
この職業が一番私に合っていたのかもしれません。
ただ、便利屋業というのは、楽な仕事ではありません。
なので、
朝から晩まで、暑かろうと、寒かろうと、毎日働いています。
私個人の、完全なる休日というのは、存在しません。
休んでいても、ご依頼の電話や、ご相談の電話があれば対応致します。
過去を知っている方から見たら、もしかしたら、専務にまでなった会社を辞めなければ、休みも無くて、汗だくになって働かなくてもよかっただろうに・・・
と思う方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、そう思う日が無かったとは言いません。
独立してすぐは、本当に大変でした。
独立前に、私を評価していた方は、老舗の会社に守られていた私を評価してもらえていただけであって、組織の外に出た私を、私個人としては評価してもらえませんでした。
そしてみるみる、通帳の残高は減っていく。
会社員時代とは当然ちがいますから、本当に毎日が勝負の連続でした。
その日依頼がないと1円も入りません。
当たり前ですよね。
皆様からの問合せがどれだけありがたいかという事を実感した時期でした。
家庭でも、嫁さんや子供たちには本当に苦労をさせてしまいました。
女性からすれば、家庭を守るのが仕事です。
でもその為の金額を満足に用意する事ができませんでした。
今でも大変申し訳なかったと思います。
それくらい、私個人の力や影響力というのは、小さく、貧弱で、吹けば飛ぶ程度の物だったのです。
思い知らされた期間でした。
老舗の会社という存在、
そしてその会社を守ってきた親と一族のすごさというのを目の当たりにしました。
ですが、目の当たりにした事で、はっきりしました。
自分がやるしかない。
誰も守ってくれない。
家族を守るのも、家庭を外から守るのも私しかいない。
あれやこれやと、いろんな事業を経て、今の便利屋業という形態になりました。
そして、便利屋業という事をする過程で、1人1人のお客様の暖かさというのを学ばせてもらえました。
仕事の合間に、飲み物を用意していただけたり、
何かの折に、知り合いの方を紹介していただけたり、
何度も、お仕事を依頼してくれたりと・・・
生きてて良かったと本当に思えます。
人は一人では生きてはいけないというのを肌で感じました。
弱い感情に負けそうになるのも人間なんだなと思いました。
最初に申し上げましたように便利屋業として、9年を超えました。
私も年を取りました。
身体はだんだん、辛くなってきました。
ですが、今でも現場にもちろん出ます。
どうしても間に合わないという時は、スタッフにお願いする事もありますが、基本は私も現場です。
そのモチベーションは、
まだ会っていない新しい方が、住まいるパートナーを利用していただいた後の喜んでいただく笑顔なのかもしれません。
そしてそれを包み込む、佐賀や周辺地域の優しさかもしれません。
今後も、住まいるパートナーは、佐賀、そして近隣の地域の方へ恩返しのつもりでこれからも事業として頑張っていきます。
そんな私でもよければ、遺品整理、不用品の回収や、仏壇の処分、引っ越しの片付けなどお困りの際は、ご依頼いただければ幸いです。
川原 啓孝